クリエイティブネイバーフッドという代替案
人間は根源的に変容する、というケイパビリティ
Society5.0が目指す、人間中心社会の具体的イメージとはなんだ。まさか、ロボットが今夜の食事を調理してくれることではあるまい。自動運転の車に乗って移動中に映画を見ることでもあるまい。高度なテクノロジーによって労働や消費から(少しだけ)解放されたわれわれは、新たに生み出された時間を何に使うのか。
資金調達の相談で訪ねた某産業振興公社の担当者は、こう言い放った。「ほとんどのサラリーマンは、退社したら早く帰宅して、ソファーに横になりながらTVを見たい人たちだからね」。にわかには信じられなかった(おまけに、提示した事業計画案は”対象が限定的すぎる”として却下された)。そもそも自己実現ってなんだろう。そもそも人間の可能性とはなんだ。人間のケイパビリティとは。
大抵のことは本を読めばわかる。それでも分からなければ、その道の専門家を訪ねればわかる。で、わかった。東京大学東洋文化研究所教授 中島隆博氏だ。氏曰く、人間にとっての究極的な価値・可能性とはすばり、「人間が変化するということ」「人間が根源的に変容するという可能性」だという。だから人間は人間存在を表す Human Being というよりむしろ、生成変化を表す Human Becoming として捉えるべき、と。さらに重要なことは、生成変化のためには、他者との関与が不可欠だとし、「人は他人とともに人間となる ”Human Co-becoming”」のコンセプトを披露する。
これで、先述した幸福論(スマートシティがスマートな都市となるために)、「人が幸福と感じるのは、自分から積極的に行動を起こすこと」、その結果の成功の有無ではなく、「行動を起こすこと自体が幸福感を得ることにつながる」にも合点が行く。
そろそろ関係性を組み替える時代
一方、人間活動のプラットフォームである都市の現状はどうか。「日本は先進諸国の中でもっとも社会的孤立度の高い国ないし社会になっている」。そう指摘するのは、京都大学教授 広井良典氏だ。ちなみに社会的孤立とは、米国の大学が行っている世界価値観調査の一部で、家族などの集団を超えたつながりや交流がどのくらいあるかに関する度合いを示したもの。
氏の著書「人口減少社会のデザイン」(2019 東洋経済)によれば、日本ではいまだに「ウチとソト」の明確な区別や、「同調と排除の二極化」といった性向が顕著で、集団を超えた個人と個人のつながりの構築がうまくできていないとし、その一例として、”見知らぬ者同士がちょっとしたことで声を掛け合う”ことが、概して日本では海外よりもずっと少ない、と話す。少々長くなるが著書から引用する。
「残念ながら現在の日本の場合、『知ってる者同士』の間では極端なほどに互いに気を遣い、また同調的にふるまおうとするが、見知らぬ者、あるいは集団の『ソト』の者に対しては、ほとんど関心を向けないか、潜在的な敵対関係が支配するという現状がある。(中略)近年半ば流行語のようにもなった”忖度”も、そうした日本社会の意識や行動様式の一断面と言えるだろう。私はそうした関係性のありようを、『集団が内側に向かって閉じる』と表現してきた。このような傾向の強い日本社会での人と人との関係性を、いかに(集団の)ソトに向かって開かれたものにしていくかが、もっとも基本的な課題としてある」
まだまだ、われわれはアイディアや思想や公共性といった思想をベースとした、アドホックで連携進化的なダイアローグを行う術を身につけていないのかもしれない。
(2/2へ続く) text:吹田良平
photo:OGATA
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