text:吹田良平
そもそも、スマートシティとは人の作業を省力化する以上に、人の能力をより飛躍させるためにある、と弊誌は考える。映画監督、浜野安宏は1970年代半ば、「現代社会は欠乏充足型から欲望充足の時代に移行した」と宣言し、自らが作り上げたい生活環境を自らの手と創意工夫により実現するための施設、東急ハンズを世の中に送り出した。ところがである。
ところが、昨今のスマートシティは未だ欠乏充足の地平で燻っている。
スマートシティの概念が世に出始めたのは2000年代の後半。当時はスマートコミュニティ(経産省)の名でデビューした。内容は電力融通テクノロジーの整備によるエネルギーマネジメントがメインテーマで、インフラ型スマートシティとも呼ばれた。
昨今のセンシングにより収集・統合したデータをAIで分析し遠隔制御する、いわゆるデータ駆動型スマートシティの登場は2015年以降。2016年1月に、ICTを活用しサイバー空間とフィジカル空間とを融合させた、超スマート社会、「Society5.0」が閣議決定されて勢いづいた。今日では、スマートシティ2.0、スーパーシティ、センシングシティ等、いわゆるバズワードが喧しいが、光の当て方に違いがあるだけで、内容に大差はない。
いずれも、目指すところは、エネルギーマネジメント、交通量管理、自動走行、自動配送、遠隔医療、遠隔教育、防災、防犯など、社会生活のベーシックな部分における活動の「自動化・代替化・効率化・省力化」に過ぎず、これらは「社会課題解決」と呼ばれてありがたられている。でも、言わせて貰えば、これらは冒頭の欠乏充足の域を出るものではなく、また「人間の能力を飛躍させる」技術とも言い難い。皮肉なのは、この国策による経済再興戦略の金科玉条「Society5.0」の目指すところが、「人間中心社会の実現」とされている点だ。
そもそもスマートな都市とは、そこに居住したり来街する人間の能力が、欲望充足に向けて創造的に開花する都市を言うのではないのか。よく言う「人間の脳は普段10%しか使われていない」は根も葉もない作り話だそうだが、少なくとも、人間を普段の状態から知的興奮やフロー体験(©ミハエル・チクセントミハイ)に向かわせることが人間の能力拡張であり、そうした状態の人が多い都市をスマートな都市と呼び、そこで初めて人間中心社会の実現と言えるのではないのか。今のスマートシティでスマートと呼べる人は、その都市インフラ技術を開発・運営した、エンジニアだけではないのか。
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